ヒトはなぜ歌うのか 

作曲家のなかにしあかね氏が2011年6月に当時宮城県宮城学院女子大学教授をされていたころに著された研究論文を「たまたま」読みました。(研究論文集112号)

なかにし あかね | 宮城学院女子大学

そのタイトルが「ヒトはなぜ歌うのか」

 

論文はA4サイズで11ページに亘り、

1.歌はどのように生まれてきたのだろうか

2.表現とは何か

3.コミュニケーションとしての歌

4.音楽表現としての歌~西洋音楽における歌作品を歌うということ~

の4章、そして「おわりに」

 

天才的作曲家は三善晃武満徹の文章を読めばわかるように(「わかる」は「理解できる」ではない)実に独創的で、超凡人の僕などにはおそらく2%ほどしか理解できていない自信があります。

しかし天才的合唱作曲家であるなかにし氏の文章は言葉としては比較的平易である(超凡人にも理解できるよう苦心されたのだろう)のですが、その柔らかい文章が包含する洞察は深く、わずか11ページに簡明にそぎ落とされた文章を要約する技量を僕は持ちません。

というわけで「4.音楽表現としての歌」から一部引用することにします。

(以下、緑文字)

 

ここにひとりの悩める歌手氏がいる。彼が歌うのは生活のためかもしれないし、足が速いとか手先が器用だというのと同じレベルで、いい喉を持っているという身体機能の特性を生かそうとした結果にすぎないかもしれない。とにかく、彼は音楽表現手段としての「歌う」技術を身に付け、人に聴かせてお金を頂くまでに磨き上げた。

彼は一枚の楽譜を前にして思う。

「こんな詩はナンセンスだ!こんなストーリーはありえない!」

しかし彼はその歌を練習し、決まった日時に人に聴かせなければならないだろう。

「よし、この詩は好きだ。共感できる。しかしこの音楽はいったい何なんだ?!」

あるいはこう考えるかもしれない。

「この歌詞も曲も素晴らしい!!しかし難しすぎる・・・!」

彼はひたすら努力し、本番の舞台で失敗しそうなフレーズを気にしすぎないで歌えることを祈るしかない。

(中略)彼はまず詩の理解に努めるだろう。この詩は何を言おうとしていて、それはどのような背景に基づくのか。この詩の真のメッセージは何か。彼はそれらの言葉を自分自身の言葉として自らの内から発するまでに嚙み砕き、消化しなければばらない。

そして、その詩をどのように彼の商売道具としての歌声に乗せるかに苦心する。この言葉は歌う言語としてどこにどう響かせればよいのか。この文脈で歌われるときどう発音されるべきなのか?日本語のように一音だけでは意味を伝えにくい場合は特に要注意だ。彼の発する「か」は「母さん」かもしれず、「鐘」あるいは「金」、もしかしたら「悲しい」のか「かすか」なのかもしれない。(後略)

 

この後、歌手氏の苦悩はさらにつづくのだが、作曲家にとっての苦悩も。

 

芸術分野において作曲家という存在は、その表現が受け手にダイレクトに届かない希少な存在である。画家も小説家も演奏家も、彼らの表現はそのまま直接受け手と対峙するのに対し、作曲家の作品は多くの場合演奏家に演奏されて初めて形を成す。上手に演奏されることは、よい作品に聴こえるために絶対必要な条件である。ましてや歌ともなれば、声という楽器はひとつひとつ手作りであるために、どんな楽器に当たるかによって出てくる音は全く違い、楽器としての平均値というものが存在しない。(後略)

 

演奏者側からすると少々耳がイタイ。

 

聴衆にとっても歌を聴くことは他の楽器を聴くよりも賭けの要素が強い。「聴くに堪えないピアノの演奏」というものはあるとしても、「聴くに堪えないピアノの音色」にはめったに出会うことはない。しかし「聴くに堪えない声」に出会う確率は楽器よりは高い。(後略)

 

同じく耳がイタイ。

歌手氏に戻る。

 

それでも歌手氏は歌う。作曲家は歌を書き、聴衆はチケットを買う。なぜだろう?「当たり」が出た時の快感が何にも増して大きいからだろうか?脳のアンテナがビンビン反応するような心地よい声の響きにくるまれる快感。歌詞の世界に没入することができれば、最高の非日常を経験できる。3分間の歌曲一曲で、人生を表現しきることもできれば、オペラ一幕で涙を一滴残らず搾り出すこともできる。それらの経験を共有する瞬間の幸せは何にも変え難い。(後略)

 

歌を創り歌を歌う行為は今や高度な芸術表現として発達し、そのもたらすものはより多彩に変化し続ける。歌は、おそらく脳の中で、器楽だけの音楽とは違うところで受け取られ、処理される。人間の脳は人の声に強く反応し、言葉に敏感に反応する。そこに表現されるものを聞き取ろうとする本能が備わっている。だから聴衆は、さまざまな難関に悩まされながらも歌い続ける歌手という人種に対して、他の演奏家とは質の異なる畏敬の念を持ち、温かく、また厳しい。

(中略)歌は表出させ、歌は表現する。歌は伝え、歌は受け止められる。歌は誰かとつながろうとし、自分自身をつなぎとめようとする。歌は共有され、共感される。歌は純粋な詩の意味も、雑多な欲求のかたまりも、メッセージとして発信する。「うた」の半分は音楽で半分は文学である。歌は社会的でもあり同時に個人的でもある。歌は日常であり、非日常である。歌を創り、歌を歌い、歌を聴くという行為は、多面的複合的要素の集合体のやり取りであり、連綿と受け継がれた我々のDNAにプログラムされている。

「あなたはなぜ歌うのか」の答えは、あなたが歌う歌、歌うときの数だけある。

 

※「雑多な欲求のかたまり」については「2. 表現とは何か」の章で詳しい。

 

4章で一旦終えられたはずの論文に、東日本大震災後に付け加えられた「おわりに」の章は感動的で目頭が熱くなります。

なかにし氏に接したことがある方はご存じと思うけれど(僕は数回お会いしただけですが)、気さくで、丁寧で、頭の回転が速く、情に厚い、素晴らしい「人間」であることがこの章からもよく分かる。

最後に「おわりに」の章の最後を。

 

「人はなぜ歌うのか」の答えは、歌う人の数、歌う歌の数、歌う時の数だけある。それが人を生かすものであってくれるように心から願いながら、私は、歌をうたうということについて考え続ける。

 

端折ってしまった1,2,3章を読んでこその結びでありますので、お時間ある方はご一読を(^^♪

論文の全文へのリンクは

https://www.mgu.ac.jp/main/educations/library/publication/kenkyuronbun/no112/03nakanishi_112.pdf